今治タオルは今日の日本のものづくりを代表する業種、いわば日本ブランドの一つとして広く海外にも知られております。その 地位を獲得する背景には、この地域の土壌と長い歴史の積み重ねがあるのは言うまでもありません。
「なぜ今治タオルか?」への答えは、次のように言われています。
一つはこの地域の風土として、江戸の昔から綿業の産地としての基盤があり、織物が盛んで藩もまたこれを奨励したこと、二つ 目には蒼社川の伏流水という美しく豊富な水資源に恵まれたこと、そして三番目に、イノベータ―としての優れたリーダーの出現です。
この人こそ、今治タオルの中興の祖といわれる中忠(株)の創業者、中村忠左衛門です。彼は、それまで白と決まっていたタオル の糸を先染めして縞柄のタオルを考案しました。デザインタオルの先駆けとなるこのタオルは文化織と呼ばれ、大いに人々の 共感を呼びました。今、タオルが装飾品としてインテリアやアパレルまで広がっていることを思えば、彼こそが今日のタオル時 代への道を開いたと言えるでしょう。
中忠(株)は、この創業者中村忠左衛門のフロンティアスピリットを受け継ぎ、新しい時代へ向けてデザインとよりクオリティの 高い商品、こだわりのものづくりへの開発に取り組んでまいります。そして、社是である『忠恕』~まごころとおもいやり~の精 神を守りながら国内のみならずアジアや欧米にも拠点を広げ、日本のクラフトマンシップをもった、世界の中忠を目指してまいります。
『テキスタイル・レポート今治』
2000年3月発行 掲載:今治タオル人物マップ
【延暦18年(799年)】
三河の国に漂着した崑崙人(コンロン人)が持ち込んだと言われている綿花の種が、温暖な西日本、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予等で栽培された。特に今治地方で綿花栽培が盛んに行われ、婦女子はそれを紡ぎ、手織り家内工業として小幅白木綿を製織した
【江戸 1603年~】
1716~35年頃 柳瀬義達、白木綿の問屋制「綿替木綿」(わたがえもめん)を確立
> 伝統的綿業機業地、綿業環境が整っていた今治地方。 今治藩、綿業問屋専売制推進。殖産振興に力を注ぐ
【明治 1868年~】
白木綿の衰退、代わって「綿ネル」(伊予ネル)登場。マニュファクチャーとして隆盛を極める
1894年 阿部平助、タオルの生産を始める
1910年 麓常三郎、白木綿手織り機をタオル専用機に改良
1910年 中村忠左衛門、タオル織機試作に着手
今治タオルの土壌が固まる
>1894年 日英通商航海条約調印により治外法権が撤廃
【大正 1912年~】
綿ネルに代わって「広幅綿布」が主流に
タオル時代幕開け
1912年 綿ネル織機を利用して綿ネルの不需要期に副業として広巾織物の製織を始める
1912年 中村忠左衛門が単糸先晒縞タオル(それまでのタオルは後晒だった)開発成功
生産を開始する
タオルのデザイン化、文化織として大ヒット。タオル製造への産業革命が一気に進む
今治は、イギリスの有名な工業都市になぞらえ「四国のマンチェスター」と呼ばれる
>1920年 今治、市政施行
【昭和 1926年~】
苦境時代 戦争の時代 戦災工場織機消失
『ネル屋は寝る。タオル屋は倒れる』と言われるくらい苦境の時代
1945年 復興、ジャガード織機新設
1950年 タオルケット開発、需要大
1960年 今治、タオル工場、生産量ともに日本最大に
>1929年 世界恐慌 日本がポツダム宣言を受諾、長く続いた太平洋戦争が終結
【平成 1989年~】
中国、ベトナムなど輸入タオル増
生産設備の近代化、コンピュータ化
日本のものづくり「今治タオルブランド」世界へ
インテリア、アパレルへのタオルの参入
>バブル経済崩壊、国内需要は大きく減少、中国、ベトナムより安価な輸入品が急増、リーマンショック、 四国タオル工業組合は今治市及び今治商工会議所との連携により、今治タオルプロジェクトをスタート